目線
バスが日々の脚になる生活は、母と一緒に街へ出る度乗った10歳の頃までと、それから少しとんで毎朝自転車通学の連中を追い越すのを眺めた高校時代と、さらにとんで今が3度目。通勤ラッシュから解放されて電車は休日に乗るものになったから、いつかまた仕事が変わってラッシュに揉まれる日々が戻ってきたら、と考えるととても怖い。
今朝はいつもより早くバス停に着いて、ベンチに座って回送車が過ぎるのを見ていた。バス停前の信号で止まったその回送車の、ふと目線が下がってタイヤに目がいった時、接地部分の車重でたわんでいる様に昔の記憶がぼんやり蘇ってきた。
小さいころはバスのタイヤはもっと大きくて、僕の背丈とほとんど変わらない大きさで、だからいつも停車しているバスの横にくれば目線はタイヤにあった。薄汚れたホイールの形とか、ゴムのたわみをしげしげ眺めるのが常だった。思い返さなくても変な子供だった。
住む街が変わってからバスに乗ることがなくなって、その間に僕はバスのタイヤより大きくなって、今は方向表示板だけ見るようになった。無数にある同じように目線が高くなって見えてきたものと見えなくなったものをいくつも思い出しながら職場に着いた。僕の、当時以来すっかり埋もれた記憶を掘り当てた日だった。