とっておきの春樹
雨が続く。明日の予報は晴れ時々雨だそうだが、あまり期待はしてない。晴れ男の自負は日毎崩れていく。5月に控えた楽しい楽しい1日、そこだけはどうかどうか降ってくれるな。
ナチュラルに女子中学生を煽っていた村上春樹は、何冊も挑戦してはその魅力を理解できずに途中で投げ出してきた唯一の作家で、それは中身の問題でなく、文体が苦手だという理由に尽きる。村上春樹が大いに影響を受けたフィッツジェラルドは僕も大好きで、でもグレート・ギャツビーは野崎孝訳を読んで本当によかったと今も確信している。村上春樹といえば、誰でも知ってる世界に誇れる偉人だし、長生きしてもっともっと作品を書いて欲しい、日本の顔になってほしいと心底、しかし僕はたぶんずっと好きになれない。みんな春樹を支えてあげてくれ。
それでも懲りず、むしろ初めて本当に「読みたい!」と思う春樹の本を最近見つけてしまった。実はツイッターで春樹の話をしたときからすでにそう思っていた。小説でなく紀行文だから、苦手な文体も違ったりしてアレルギーが出ないかもと淡い期待、でもこれでダメなら一生ダメだと覚悟の気概。今やるべきことがひと段落した時の、とっておきの楽しみのひとつだ。
それほどまでに読みたくなったきっかけは、最近心から学びたい学問、っていうか世界っていうか、まぁそういうものに出会ったことで、かの本にはそれにまつわるものが色々書いてあるというわけなのだ。ああもっと早く、例えば大学を選ぶころに気づいていれば、と後悔もしつつ、今だからこそ出会えたものだと前向きに学びたい。それでもっと自分の中へ吸収できたら、こんなボカし方をせずに何を学んでいるのかはっきり書いていこう。
目線
バスが日々の脚になる生活は、母と一緒に街へ出る度乗った10歳の頃までと、それから少しとんで毎朝自転車通学の連中を追い越すのを眺めた高校時代と、さらにとんで今が3度目。通勤ラッシュから解放されて電車は休日に乗るものになったから、いつかまた仕事が変わってラッシュに揉まれる日々が戻ってきたら、と考えるととても怖い。
今朝はいつもより早くバス停に着いて、ベンチに座って回送車が過ぎるのを見ていた。バス停前の信号で止まったその回送車の、ふと目線が下がってタイヤに目がいった時、接地部分の車重でたわんでいる様に昔の記憶がぼんやり蘇ってきた。
小さいころはバスのタイヤはもっと大きくて、僕の背丈とほとんど変わらない大きさで、だからいつも停車しているバスの横にくれば目線はタイヤにあった。薄汚れたホイールの形とか、ゴムのたわみをしげしげ眺めるのが常だった。思い返さなくても変な子供だった。
住む街が変わってからバスに乗ることがなくなって、その間に僕はバスのタイヤより大きくなって、今は方向表示板だけ見るようになった。無数にある同じように目線が高くなって見えてきたものと見えなくなったものをいくつも思い出しながら職場に着いた。僕の、当時以来すっかり埋もれた記憶を掘り当てた日だった。
ルーティンは穏やか
ルーティンは偉大だ。
朝7時に起きて、8時に家を出て、9時に仕事を始めて、12時に昼飯を食べて、17時か遅くとも18時には仕事を終えて、35分かけて帰宅したら、あとは0時までなんやかや。期限付きで選んだそう長くない日々とはいえ、今まで不規則な生活を続けたせいで、真っ当に生きている感じがとてもすごい。ありがたい。しっかり身を固めたい、という気持ちは日毎増すばかりで、前職を飛び出したのはつくづく正解だったし、腰の重い僕がかつてなく機敏に動けたのは、きっと人生において時折発動する特別なアレによる結果なのだ。
3月は毎日過ぎるのが早くて、4月もそう。それはこの先に焦りを感じるせいもありつつ、もっと大きいのは恵まれた環境のおかげだ。身を固める活動を優先できる場所を選んだから当然だけど「もう帰りの時間か〜!」で日々が終わる。別に仕事自体は地味でつまらないけど、なぜか穏やか。同僚たちと話しつつの作業、適当に休憩。会いたいと思う人がいるのもある。まあ家で落ち込む時間も多かったが、あれは無意味でない。圧倒的成長時間だからノーカン。
結局自分が本当にやるべきこととなるべき姿がぼんやりわかってきて、ずっとブレブレだった芯が落ち着いてきたからかもしれない。今はとにかく、ブレブレの自分でも見捨てずにいてくれた人間たちに恩を返したい、という気持ちを絶対忘れまい。本当に新社会人みたいな、子供のような事書いたけど、友達が読んだら今更すぎるって笑うかな。でもその通りだし僕も笑える。たくさんの後輩にすっかり先を越されて、いつでもみんなより育ちの遅い僕らしい。
あとスタドラの「やりたいこととやるべきことが一致した時!世界の声が聞こえる!」ってセリフ、当時はカッケーwwwwで終わってたけどようやくほんとに心を打たれる。やっぱりタクトがナンバーワン!
四月は君の嘘やっとみた
277日後
良い傘
先日新しい傘を買った。今度は透明なビニールの傘じゃなくて、黒いナイロン傘。
ビニール傘は大抵すぐ壊れたり置き忘れたり、出先で降られて買い足したりするので数ヶ月持てば良い方だった。でも去年買った傘は、珍しく壊れず失くさずもう1年半付き合ってしまった。なにせ元々長く使われるものでもないから、晩年は表面が劣化してパッサパサだし骨からビニールが剥がれちゃってる部分もあったりとずいぶんみすぼらしかった。さすがにこの歳でボロッボロの傘を使っているのも恥ずかしくて、そろそろ良い傘を買おう!とタイミングを計っていた折、外で降られた勢いで買ったのだ。ビニールじゃない傘を持ったのは15年以上ぶりかも。小学三年生の頃に水色のグラスファイバー骨の傘を持っていたのは覚えているのだが。
ビニール傘よりまし、といっても千円ちょっとのコンビニ傘なので正直大差ないかもしれないが、使い心地は思ったより良くて楽しい。
まずジャンプ式なんだけど平らなボタンが柄についてて、一見ジャンプ式っぽくない。さらに押すとフワッと開く。ビニール傘みたいにッッッバン!!!ってならないから品が良い。
ちょっと考えたんだけど頭悪そうな説明しか出来なかった。
あともうひとつ良いところがあって、雨粒の当たる音が耳に心地良いのが気に入っている。ビニールはパチパチ、ナイロンはポチポチという感じだ。雨の日はイヤホンを外して歩くくらい雨粒の当たる音が好きなので、これは大事なところ。
傘買うと雨が降らないジンクスは偉大だ。買って何日かしか経ってないけれど、梅雨のくせに全く降らない。しかも降ってるときは外に出る用が無い。晴れ男だから仕方ない。今外は少し雨の音がしていて、このまま朝方にかけて結構な量が降るそうだ。いよいよ出番か!と思うけれど仕事に行くころには止んでそうだ。まぁ降ったら降ったで傘持ち歩くの面倒だし、止んでるほうがいいのだろう。
ラジオの思い出
大好きだったラジオ番組が去年の春に終わっていたことを知った真夜中、なんだか無性に悲しくて眠れない。自分でもこんなに悲しいのがむしろ面白い。
広くて小さな田舎の、小さな小さなコミュニティFMの深夜番組だった。
聴き始めたのは中学一年か二年か、番組が始まって一年経たない頃だった。はじまりはあの街に唯一ある大学の、とある学生達が作った番組。その企画者の男が平日深夜のバラエティとして立ち上げたものだった。企画者であるメインDJ(男)とパートナーのDJ(女)が二人で進行する形式で、パートナーは番組が終了するまでに何代も交代した。
きっかけはよく思い出せないが、ある日中学の帰り道、ある友達とその話で盛り上がり、投稿してみようということになったのは覚えている。だからすでに何らかの形で聴き始めていたんだろう。祖母を真似て「ラジオを聴きながら寝る」のをやるため、母に小型ラジオを買ってもらい、適当に周波数を合わせたらその番組が聴こえてきた、という具合な気もするがこれは定かでない。
生番組でリスナーの数はそう多くないから、メッセージを送ればほぼ確実に読んでもらえた。わずか二年間と少しの中学卒業まで、毎日メッセージを投稿して熱心に録音までしていた時期もある。DJにも覚えてもらって、電話コーナーで話をしたりもした。娯楽の少ない環境のせいもあるが、公共の電波に自分が書いたメッセージが広まる感覚がたまらなく楽しくて、すぐに熱中した。
メッセージと言っても、家にFAXも無ければハガキを送るのは時間差がもどかしく、もっぱらEメールで、当時携帯電話を初めて持った姉貴に貸してもらってやりくりしていた。パケット定額制以前の時代だから、一日一通の約束を破ってこっそり二通投稿した日もある。そういえば録音したカセットテープはどこにいったか考えてみたが、実家が無くなるときにまとめて捨てられたかもしれない。もしあったとしても手元にデッキは無いし買うのも面倒だから、二度と再生することもないだろう。
聴き始めた頃は学校にあまりリスナー仲間がいなかったが、次第に増えて、仲良しの連中は皆投稿するようになった。中では古株のリスナーだった僕は、ちょっと優越感を抱きつつ昨日の番組の話をするのが楽しみになっていた。
聴かなくなったタイミングは覚えていない。理由も覚えていない。
受験期に趣味を自制するうち自然と忘れていった気もするし、他の楽しみを見つけて飽きたのかもしれない。
ただ大きくなるにつれて色々な経験や知識が増えて、メインDJの芸人気取りなMCに「気に食わねえ」と感じたことも遠ざかった理由のひとつだろう。
結局高校生になったころ気まぐれを起こしてたった一通だけ、近況報告とこれからまたたくさん投稿しますねと書いたメッセージを送ったが、その後はついに一度も聴くことなく終わってしまった。
余談だが高校生のころクラスのアイドル女子に昔○○○ってラジオネームで投稿してたでしょ!?って突然言われてキョドりをキメたことがあるがなんで知ってたんだろう。たぶん同時期のリスナーだったんだろうな。
サイマル放送という手段があったから、東京でもネットで聴くことは出来たはずなのに、聴いていればよかったという後悔は無い。ただずっと続いていて、今もきっとあるだろうと思っていた場所が実はとっくの昔に無くなっていたことだけがショックだった。もう帰ることの無い街にまだ残っていた、青春の面影(この表現超恥ずかしい)が消えてしまったような感じ、それだけだ。
メインDJの彼は、これからメディアなど表舞台で活動する予定もなく、局を引退したそうだ。きっと今頃は一般人に戻ったのだろう。
彼が復帰する可能性ってあるのかな。引退の挨拶では二度と復帰はしないとのことだが、昔から大げさな物言いをする人だったし、いつか戻ってきたりして。
気に入らない時期もありつつ、なんだかんだ思春期の大切な時間の一部を捧げられるほど面白いことをやってくれた人だから、またあの小さな表舞台に出てきてくれたら嬉しいと思う。
その時は自分のこと覚えてますか?ってメッセージを送ろう。たぶん彼なら覚えていてくれそうな気がしてしまう。彼はいつまでも田舎者のカリスマであるし、今でもちょっと憧れる存在なのだ。