水の無いプール

僕は冬が大嫌いで、だからどんなに暑くても、冬の寒さを思えば我慢できてしまう。冬はいいことがあまり起きないし、街から緑消えるのはもの寂しくてゆううつになる。

 かといって、暑ければいいというわけでもない。特にここ数日はあまりにも暑すぎてプールに行きたくなってしまったが、カナヅチの僕にとってそれは大変珍しいことだ。昨年も一昨年も、友人に泳ぎを教わろうなどと企てつつ結局実現せずに過ごしてきた。百万が一行くとして、プールなんて水に浸かってぱちゃぱちゃ〜ってかけあいっこして、ビート板でスイーッて泳いでいれば良いのだ。関係ないが小学生の頃カナヅチという単語を間違ってトンカチと口走り、二週間馬鹿にされたことがある。

 

 

改めて言うと僕は本当にプールが嫌いだ。冷たくて寒いし、何かの拍子に水が喉に入ってむせるのがとても恐い。小学二年の夏、水疱瘡に罹ってドクターストップが出た時、合法的にサボれて大変喜んだので親に怒られたりもした。ビート板で泳ぐのは楽しかったけれど、そんな風にそもそも自力で泳ぐ気がなかったので、上達もしなかった。

最後にプールに入ったのはいつだったかと考えて、思い当たったのは小学六年、最後の水泳授業だ。以降は中学の修学旅行で、一度だけ入る機会があった(ホテルの大浴場とくっついてるタイプの温水プール)くらいで、それも本当に嫌で仮病を使って逃げた。学年のほぼ全員がプールではしゃいでいるその頃、温泉を出てひとり部屋に戻り、横になって天井を眺めていたのを今も覚えている。それなりに華のある青春時代を送ってきた僕の、これは黒歴史である。

 

 

しかし僕にもひとつ、プールにまつわるいい思い出がある。それは水を張る前のこと、プール掃除である。 

僕の通っていた千葉の小学校には屋上にプールがあり、小学四年の頃、たった一度だけそこでプール掃除をした。とにかく快晴でかんかん照りの昼だった。水が抜けたプールは壁に塗られたパステルブルーが止まっていて綺麗で、端から端までがはっきりと見通せて、この水槽はこんなに広かったんだと驚いた。

当時いつもつるんでいた男連中と、その中に僕の好きだった女の子も一緒だった。皆でデッキブラシでガシュガシュ床を擦りながらホースで水を撒いた。25m走をしたり誰かに水をぶっかけたり、そういうベタなおふざけもたくさんやった。その年の終わり、僕は千葉を離れて北海道に行くのだが、当時は来年もまたプール掃除したいなぁ、などとぼんやり考えていた。あれから十五年が経つが、当然というか未だ何の縁も無いまま、宙に飛んだ水しぶきのきらめきが記憶に焼き付いているだけだ。

 

 

また今年も、血迷ってプールに行きたいと言いつつ本当に行くかわかんない夏を迎えてしまった。今のところ水の無いプールに入ったことが、僕にとって唯一、プールを好きだと思えた瞬間なので、十五年ぶりにもし実現したらせめてプール半分くらいは泳げるようになりたいと思っている。

散り散り

母から遠くの街に引っ越すことになりそうだという報告を受けた。本当は東京に来るかもしれなかったのだが、和歌山に住む数十年来の母の友人が、北海道を出て自分と一緒に暮らさないかと招いてくれたのだという。僕はその人が好きだし、僕の家族はもうその形を維持するのが不可能だと、とっくの昔に知っていたから、ようやく現状を脱する足場が固まったのだと、むしろこの縁を歓迎したい気持ちである。

 

13年前、北海道で暮らし始めてから、僕は一日も欠かさず、ずっと関東に帰ろうと思い続けた。機会は大学受験しかなかった。その後10年越しで夢を叶えて、躊躇いもなく親を置いて一抜けた僕と、一人暮らしをするという形で家族から間もなく二抜けた僕の姉。後に残って寂しい思いをしながら三抜けを待った僕の母に、ついに当たりがきたようだ。

 

 僕の家族は、数年かけてゆっくりと散っている。

 

 僕より早く上京を考えていたはずの姉は、気がつけば真逆の道を辿っていて、結局北海道に残るつもりのようだ。きっとそのまま骨を埋めるだろう、という予感もしている。僕にとっては第二のふるさとであるから、姉はずっとそこにいてくれれば具合が良い。帰る場所としてあってほしい。

 

 母もまさか、故郷の関東を飛び超えて行くなどとは思いもしなかったろう。母は東京で生まれ、千葉に移り、北海道に移り、今度和歌山に移ればこれで四つ目の住処である。年齢の事を考えればそろそろ一カ所に落ち着くべきなのだけれど、きっと死ぬまでそんな風にあちこちを転々とする人種なのだと思う。

 

 僕が生まれて四半世紀が過ぎて、ついに一家は完全に離散することになる。もとより本当の家族はずっと昔に揃わなくなっていたので、僕はいまさらそういう状態を特に寂しいとは思わない。両親とご飯を食べに出かけるとか、TVを見ながらくだらない話をするとか、本当になんでもない、「家族」が作る当たり前のような風景を、僕は大昔に失ってしまったし、これから先ももう見ることは無い。

 

 北に帰る場所はあるし、この街は生まれ故郷の千葉にも近いし、西に向かえば母の家に泊まって四国へ旅行しやすくなるのだ。むしろこれは大変便利なものじゃないかと、そんなことを考えながら全く知らない和歌山という街をGoogleマップで眺めている。

七夕は終わっていた

お仕事で文章を書くようになって、こんなに連続して何かに集中できる自分に驚いた。僕は落ち着きがない。集中力だって本当に続かない。やってみようとするのだけれどいつも途中で他のことに気をとられて、まぁそれでいいかなんて思っていた。受験勉強の時もこれだけ出来ていればよかったのにな。大した文が書けるわけではないし、お仕事でやっているものは自分が書きたいものでもなんでもないけれど、やっぱりそもそも文章を書くという行為が大好きなのだと思う。これは飽きっぽい僕の、小さい頃からずっと変わらない気持ち、本当のことなのだ。

  

 

 

ここ数日はなんやかや忙しくて、すっかり疲れてしまった。昨日の夜もあまり眠る時間が取れなかったので寝不足になってしまい、六本木のあと夜は吉祥寺でほとんど体力を使い切ってしまったので、帰宅したあとはぼんやり何か考え事しているだけで何もしたくなくなっている。アニメを観たいと思わなくて、今惰性できんいろモザイクを観ているけれどあとで見返さなきゃいけなくなるだろうなと思っている。実家からの連絡を受けて、また何か色々変わりつつあるな、そうかだから僕ももう変わって行くんだと、そういうことをぼんやり考えている。

金曜ロードショー

金曜ロードショーのジブリ週間、第一週の耳をすませば。金曜夜はどうしても21時に家に戻れない生活なので、一年のうちジブリ週間が来ると悔しい思いをしていたが、昨日はいけいけゴーゴージャンプで帰宅だ〜〜〜〜して、途中からでも十分楽しめた。

 

 

テレビで観る映画には当然CMが入る。それは難点でもあるのだが、僕は結構好きだ。その時は邪魔に感じるし、シーンがカットされる事もあるので無い方がいいのかもしれないが、録画したのち何年も経て見返すと、邪魔なはずのCMが独特のノスタルジーを引き起こしてくれる。特にジブリ作品なんて毎回録画しているので、そのたびCMのタイミングが違ったり、内容に時代が表れているのを再発見したりしてすごく面白い。一番古いジブリ作品の録画は、確か僕が3歳前後の頃に金曜ロードショーで放送されたトトロで、この頃はOPムービーが

金曜ロードショーOP(旧) - YouTube

これだったのが懐かしい。ちなみにこういう古いVHSは北海道の実家にいくつかあるのだが、VHSのデッキが身の回りから姿を消してしまったので、観るためのハードルがすっかり上がってしまったまま今も捨てられずにいる。

 

 

 

あんまり関係無いんだけど

懐かしい映像 オープニング 『金曜ロードショー』 もののけ姫 - YouTube

このアニメーションは耳をすませばの監督、近藤喜文さんが作ったと某Googleで先日知った。本当にあんな素晴らしいアニメを作れる力があったというのに、亡くなってしまったのが惜しすぎる。

 

八年越しのマクロ

今日は夕方に秋葉原へ行ってお買い物をした。ずっと前から欲しかったレンズ、ようやく買う気になったのである。お目当てのレンズはカメラコーナーに入って10秒で見つけられたので、すぐに店員さんを呼んで「ニッコールの40mmを・・・」とかカッコいい台詞を告げて在庫を出してもらった。

 

写真を始めてもう8年目に入ったというのに、今まで単焦点レンズを持っていなかった。買う余裕はあったのだけれど、他に優先するほどでもなかったのでなんとなく先延ばしにしてここまで来たのだが、先日からニコンがレンズとカメラを買うともれなくカメラバッグをくれるキャンペーンを始めたのでここぞ!!という流れで購入を決めた。

 

写真は、機材の善し悪しはさして関係ない。しかしレンズは幅広く持っていた方が撮れるものが増えて良い。最初は同じニッコールの35mm f/1.8Gを考えていたのだが、ズームと超広角は既に持っているし、似た焦点距離なら少しだけ開放が暗くても(それでもf/2.8G)マクロがカバー出来て、手頃で写りも良いと評判だったのでこちらを選んだ。ずっと前から欲しかったマクロレンズをようやく買えて、しばらくレンズ欲は起こらないだろうし、これ一本で色々撮ってみようかなと思う。新しいボディも近日中にお迎えする予定である。

 

ひとり部屋でレンズを触りつつ、実家に住んでいたころ、寝ている犬の横で寝そべりながら「この間抜け面をマクロで撮れたら楽しいだろうな」と何度も考えていたのを思い出して会いたくなった。もう今年で7歳を迎えたのだが、元々身体が弱い奴で、生きているうちに僕が会える機会など数えるほどしか無いかもしれなくて、改めてそれを考えるとすごく寂しい。いつか実家に帰る時間ができたら、心ゆくまであの間抜け面を撮りまくってやろうと思っている。それまではどうか元気で走り回っていて欲しい。

僕の一番古い夢

7/2日の朝は、地元に住む僕の家族が全員惨殺されてしまったことをTVのニュースで知り、発狂している時に犯人から電話がかかってくるという夢を見てしまい、史上最悪の目覚めを経験した。今まで人が死んだ夢は何度となく見て来たし、その度に夢でよかったと胸を撫で下ろしてきたが、その夢の中の僕は我ながらここまでやるかと驚くほどの発狂っぷりで、目覚めた瞬間もう何年経とうが決して忘れることはあるまいなと確信していた。

 
 
僕は夢の覚えが良い方で、昔から今に至るまで、印象の強い夢は断片的だがいくつも記憶から引っ張り出せる。その日はあまりにも目覚めが悪かったので、職場へ向かう途中今まで見て来た怖い夢たちを振り返っていたのだが、ものすごく久々にふと浮かんで来たものがあった。それは最古のもので3歳、ある日の夜に見た夢で、いつも行くショッピングセンターの階段を頭から落ちていく、というものだった。迫る階下の床には自宅の脱衣所にあるマット(ドナルドダックの絵が書いてある)が敷かれていて、そこへ激突する瞬間に目が覚めた。
 
 
まぁ夢といってもストーリーなどは全然無いただの光景なので面白さはないのだけれど、この時は文字通り飛び起きて、冷や汗をびっしょりかいていたのをよく覚えている。あまりにも怖かったため布団から出て、なぜか一人真っ暗なキッチンの食器棚から開封してない新品の歯ブラシを取り出して眺めていたのも覚えている。どうしてそんな行動を取ったのか、今でもさっぱりわからない。きっとよほど恐ろしかったのだろう。今のところどんなに夢見が悪くても、布団から飛び起きたのはこの時限りである。22年経っても未だ脳裏に焼き付いて、時々記憶の奥からすっと現れる光景なのだ。
 
 
 

ハートフル・ステーション

林原めぐみのHeartful Stationは、僕が高校生の頃に知ったラジオ番組で、地元では土曜深夜、いつも聴いていた「福山雅治のオールナイトニッポン」終了後に放送されていた。当時の僕は深夜アニメを観たことがなくて、むしろそんなものを観ているやつはキモい(この頃TVではハルヒダンスをする若者を奇怪な連中として特集などしていた)と決めつけていたのだが、アニメ色が強い番組だというのになぜかこれだけは毎週聴いていた。しかし上京してからは興味の対象が増えたのもありラジオに触れる機会が激減、聴きたいと思った日もあったけれど番組表を調べるほどのファンでもなかったので、今はこの番組がどこで聴けるのかわからないままでいる。

 

しかし便利な時代である。昨日ふと思い立ってちょいとアレをアレするとアレが出てきてアレされてたのでまぁ容易に聴けてしまったわけだ。5年振りに聴いた番組は今も全然変わらず、高校生活から大学浪人時代まで色んな思い出や空気の匂いまで浮かんできて懐かしいなぁ、コーナーとか今もほぼ変わらないじゃん、ぱっぴー保志総一朗です、などと何本も連続再生して喜んでいたら、94年放送分など古い音源が出て来て大変驚いた。そういえば何年か聴いていたのに、この番組がどれだけ続いているかなんて考えたこと無かったのだ。

 

 

 ───『林原めぐみのHeartful Station』(はやしばらめぐみのハートフル・ステーション)は、声優の林原めぐみ保志総一朗によるキングレコード制作・1社提供のラジオ番組(アニラジ)。ラジオ関西をキー局として1991年10月5日より放送を開始し、2010年11月27日に放送1000回を達成した。───(Wikipediaより)

 

 

ここまでとは思わなんだ。僕が3歳の頃から放送しているのである。それを知っただけで全然関係無い幼少期の記憶まで再生され始めて困った。なんせ物心ついた時から僕の知らぬ間にずーっと放送されてきたのだ・・・ずいぶん出会うのが遅かった。それにしても昔と今では少しテンポが緩やかになった程度で、声質もほぼ変わらず絶大な安定感を誇る林原めぐみは改めて偉大な声優である。とりあえず聴ける分はBGM代わりに全部再生しようと思う。今夜も林原閣下の声を聴きながらゆっくりと一日の終わりを迎えるのだ。